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昭和48年11月11日 朝
加藤恵美子
御理解84節 おごりがましいことをすな、今は細うても長う続かねば繁盛でないぞ細い道でも次第に踏み広げて通うるのは繁盛じゃ、道に草をはやす様な事をすな、甘木の初代安武松太郎先生のような大徳を受けられて、そして、あの様な沢山のお弟子が出来て、たくさんな出社が出来て、それだけ沢山な人が助かる働きの元をとられたと云う訳でございますが、安武先生のどこがあのような御比例になつたのだろう、決出された物が沢山、色々のものがございましょう、誰よりも優れたものを沢山持つておられたのは事実でございましょう、けれども私はー番安武先生が、おかげを受けられたのは、おごりがまし事を無さらなかつたと云う事だと思うですね、それを又煎じ詰めますと安武先生程、天地の大恩、天地のご恩徳を感じとつておられた方はまあ、なかつただろうと思われし程のものを感じます、神の大恩を知れば子孫も続き身代もできる、年まさり代まさりのおかげを受けられると御理解にございますが神の大恩と云うこと、そのまま天地の大恩と云う事だと、夜、天地の御恩徳を知られた、そこから、その天地の御恩徳である所の御物と云う事になつてきた、ひと掬いの水でも一粒の米でも紙切れ一切れでも、その枯れ葉、枯れしばに至る迄天地の親神様の御物ばいと仰つしゃる様な信心をなさつた御自身それをなさつた、それはもう話のような所を実際に行じておられるわけですね、道を歩かれても暫く行かれると下駄を履き替えられる、足のそれぞれの癖がありますから、変な履き方になります、お風呂に入つたら、タオルを決して、こう絞りきる様に絞り切るような事は決してなさらなかつた、もうそれは徹底したもの、あちらで修業頂いた方達は、もうその事だけを身を持つて習い教えられた、、修業生はそれを習つた、先生はそれを教えられた、それはもうそれこそやかましい厳しいと云う一語につきるものを感じます、ね、お風呂を沢山の修業生がおりましたでしょうから今日は、お風呂の当番と云う事になると当番のものが実にやかましく教えられた、親先生、お風呂が沸きましたと云うてそのお風呂が、もし熱うでもあつたら、大変なお叱りだつた、そこで、ある修業生の人が燃料を惜しみなさる、惜しいと思いなさるからだろうと云うので、その日は徹底して、燃料を使わずに、あの広い庭内ですから、その枯れ葉、枯れ枝を、その拾い集めた物を、枯れ葉枯れ枝ばつかりで、お風呂を炊いた、今日は先生が、どういわれんしゃつたちゃ喜びなさるようなと云う、まあ、ところがお風呂が沸き過ぎた、これはお風呂が熱すぎるじゃないか、すみません、ですが今日は燃料は全然使いません、そらもう枯れ葉や枯れ枝ばつかり、拾うたもんばつかりで沸かしましたから、枯れ葉や枯れ枝は神様の御物やなかなと、仰つしゃたと云う程しに徹底した、徹底せにゃ、おられなかつたのが先生の御信心、天地の御恩徳が分かれば分かる程枯れ葉枯れ枝一枚の中にもそのお恵みと言うものが、こもつている、今私が申しますように、様々な皆さんが、おかげ頂いたと云うけれども、そのおかげは、もう氷山のー角である、そこまでの、おかげが形成されて来る迄には、どの位の神様のお働きを頂いておるか、分からん所が分かる所に信心があると申しましたね、目に見える所のおかげは誰だつて有り難い、目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多い枯れ葉枯れ枝の中にも天地の御恩恵、お恵みと言うものが薦つておると云うことを感じられる程、それを大事にしなければおられなかつた、それが安武先生の御信心、成程これじゃ、おごりがましい事をなさらなかつたと云う事になる。
お金をお使いになるのでもそうだつた、自分のかねをー円の金を使うにも、それこそ百円でも使う気持ちでお金は使うと仰つしゃつた、もうー円位じゃけんんと言うような事じゃない、それが事神様の事である場合は百円の金を使うでもー円の金を使うてる気持ちで使わしてもらうと云われる、これじゃ、おごりがましいことは出来ないはず、私は合楽の信心に欠けておるのは、この辺だと思う、だから、いつのまにか、おごりがましい事になつてしまう、まあ、その安武先生の御信心をそのように申しましたから、そんなら合楽の信心はどういう信心か、神様のお心を分かり又分かろうと、いつも努めておる信心だと云う風に思いますですから、いわゆる甘木の御物に対する所の合楽では御事柄と頂き方をする、ですから、これは大変同じ様ですけど違うんです、もう御事柄だけは絶対、粗末にしないね、それを神様のご都合、神様の御心として頂こうと云う精進を私、初め皆様がなさつておられる、ですから神様の心がいよいよ分かる上にも分かつていく訳です、普通で云うならば、こんな事柄と言うて向こうに押しやるような事柄でもね、神様の御都合に間違いないとして、それをどんなことでも頂く所にその頂いた向こうに、おかげがこう隠してある様におかげがいつもある、と云う事を体験さして頂いたそれで神様の心と云うのはここにあつた、氏子が嫌な問題、嫌な問題と思うことの、その向こうに私どもが求めて求めて止まないおかげがあると云うのが合楽のおかげの現れ方です、だからあれもおかげであつたと云う訳なんです、けれども、これは天地の大恩を知つてと云う事ではないです天地の大恩を知ればです天地の育み又は育て作り下さつた御物を大事にしなければおられないと云うのが甘木の安武先生ね、このことは誰よりも彼よりも、その天地の大恩を感得された度合いと云う物が深かつたと云える、それがあの御比例になつた、合楽の場合なんかは、まだ今の御事柄として受けていく、この事柄もつともつと徹底さして、もつともつと広く深く分からして貰うて頂く所にこれからの合楽の御比例がかけられてある、かかつてあると思うのです、今日は、例えば、おごりがましいことをすなと仰せられる、これはどうでも合楽も御事柄と同時にいわゆる御物としての頂き方と云う物が本気でなさらなければいけない、これは私たち周辺に、を、知つておられる方は私も大事に、、私は風呂はー年使いません、ー年以上も使うことがない、もう、そりゃ、おはしの棒のようになります毎週何百名のお届けをするのですが、それでもこうやつて、削るように、その代わり私は先を削るように使う、例えば墨でも、こんなに、もういよいよ使えん所まで使う、なら私はここで神様に色々と頂いた、手控えなんかしたとを、西岡先生がきれいな神を先生があの書きよい紙をもつて来て下さる、私は決してそれを使わない、もつたいない、もうよそのここで書いたもの、よそから頂いた御神米の包装紙を使いますそりゃその方がいいこたいいです、けれども、これは私が人じゃない私自身がそうしなければおられんのです、原鶴温泉に行つてもジャブジャブ沸きよるですよ、温泉が私はやつぱり使うときには湯桶半分しか使わん、湯桶半分と五ても半分だけじゃ、只、汲み取るときにちょつと、こころ減らして頂いて半分しか使いません、これは私が御物を大事にしておるから、まあ、それだけは皆さんよりも私が天地の大恩は分かつとる、その位のこと、けれども、もつともつと広く深くと云う事、例えば私共の様にもう本当に、もつたいないような生活を許された、もうこげん、ご馳走を作るけん、俺が糖尿病になるとぞ、と言うようにある、本当にあるです、けれども頂いとる物を、だからそういう物を頂いたりしとるから、おごりがましいことを知とると云うのじゃないのです、こげな物が食べられるか、何か買うちこんかと云うのが、おごりがましいのである、与えられたものを十分それを頂くと云うう事、もうそれは最近頂きこなせませんから本当に、お粗末ご無礼になる所があつて相すまん事だと思います、お米は皆さん御承知の様に、それこそ何十俵の米がいつも倉の中にある、いわば積んである、けれども私は最近どうも、お客さんが誰かがあるものですから茶粥を必ず、お粥を頂く事になつとります、けれども茶粥を炊く暇がない、麦半分お米半分で炊きます、それで先日から家内に、その事を話しましたら、お米と麦を変えて貰うたらどうじゃろうか買う訳にはいかん、そして、例えて云うならば、お米まあ、そげんでも今、大変
向こうが高くなつて、お米ー升に麦二升あれば、それだけ大事にする事になる、そしたら昨日、麦がきとりました
と言うように、その親先生は着物でもなんでも何十万もする着物をもつてあつてコートなんか持つてあつて、それを持つちゃならんと云う事じゃない、与えられた物、けどそれを頂く、それを使わして貰う、その根本の心なんです、その心はやはり私が筆やら墨やら、そういうここで使い紙の様なものでも私は本当にチリ紙なんかでも絶体、私はチリ紙そのまま懐に入れた事ないです、必ず濃げなふうにして包つんどる、ですからチリ紙が一枚だつてお粗末にならんね、ですから、これは皆さん、おごりがましいことをしない一つの印なんです、ハー貴方お湯がどんどん沸きよるとに、そげなけちな事しなさらんでも、それがどんどん沸きよるとは向こうが沸きよると、ね、だからガバガバ使うていいと言う事じゃない、私が使わして頂く私は、最近はどうです、昨日も秋永先生、最近の世の中ちゅもんは、おかしいです、どうも、兎に角、普通じゃないですよ、兎に角チリ紙も並んで買わなならん、ちゅう時代になつた、今迄例えば百円しよつたものが四百円も五百円もするごつなつた、そん為には買い溜めもする、買い溜めするからいよいよ困つた事になつたと云つた様な、そういう事に合わんで済むような、大きな会社辺りでは全部あのトイレツトペーーパーは、だしちゃなか、名名のチリ紙は持つていく様にと書いてある、まあ、おかげで合楽はそこまでいかんでも良いおかげを頂いてますよね、私は大事にするから恵まれるんだと思う、お金でも大事にするからお金の方からよつて来ると思うです、粗末にされてから気持ちの良かろうはずがありません、最近はもう兎に角、生産過剰と云うですかね、兎に角、使い捨て時代、それがいかにも美徳の様に宣伝されたり云われたりね、そういう例えば商人のそういう宣伝に乗つてから、ほんなこて使い捨て時代になつてきよつたから、チリ紙ーつを並んで買わないかん時代になつて来たと私は思いまず。
細い道でも次第に踏み広げて通るのが繁盛ぞ、お互い繁盛のおかげを願わんものはないでしょう、五つの願いの中にありますように、やつぱ子孫繁盛、家繁盛を日々何回となく願つておられるでしょう、これは願わなおられませんもん、その子孫繁盛、家繁盛を願いながらです、子孫をお粗末にする、いわば繁盛の素で出ある所の御もの、又はお金なんかもそうです、粗末に使うてです、おごりがましい使い方をして繁盛になるはずは絶体に有ません次第に踏み広げて通るのが繁盛じゃ、道に草をはやすような事をすな、そういうチリも積もれば山となると、云つた様に、そのチリ一つでも大事にするような心掛けの中から私が道に草を生やすなと云うことは、そういう事だと思う、それを次第に踏み広げて広い道にして行くと云う所から広い大きな云うならおかげが、その道を、そのルートを辿どつて又おかげが帰つて来ると、そういうふうに思う。
今朝、改めて甘木の先生の偉大な訳が分かつたような感じが致します、今日聞いて頂きました話は、何回となく皆さんに聞いて貰つた話ですね、甘木の先生けれども甘木の信心の親先生の信心の素晴らしかつたのは誰よりも天地の大恩を感得しておられたから、その恩に報いると云うか又は御恩徳を誰よりも深く広く悟られたから、そのお徳によつて恵まれておるそのものを徹頭徹尾、大事にされたと云うと言う所に先生の御信心がある、甘木の信心はそれであるそんなら、それに対する合楽は御事柄、理屈は同じような感じでしたけれども全然違う、御事柄を大事にさせて頂いて初めて分かつたのは親愛である神様の心である、だからいよいよ神様の御働きそのものを大事にして、ゆこうというのが、これをもつともつと徹底して行くと云うことが、もつと広く深くおかげを頂いて行く事になりますけれどもどうも、おごりがましいと云うところに、「孝」が欠けておる所を甘木の信心に習わして頂くならば私共が天地の御恩徳と云つたような事を話を聞けば分かるのです、分かるけれども実感として、そうしなければ、おられない物が身に付いてくると云う事の為にーつ大事にして行く事だと云う事です。
そのなら紙切れ一枚でもです、私がこのご結界でいう筆、墨に至る迄これ程、大事にさせて頂いている所から、ご恩徳を悟らせて貰う分からせて頂く世界がある、理屈じゃないです、その例えば分かりやすく言うなら唯大事にするから又大事にされると言うおかげも頂かれる、いよいよ謂わば恩事柄を大事にして神愛の深さ神様の心の深さと言うものを悟つて行く、御物を大事にさして頂いていく所からいよいよ神様のご御徳を分からして頂く、そういう生き方が、おごりがましい事をせんですむ生き方、それは細い道であつても、これを踏み広げていく事がです、この八十四節がお説きになつておるんだと思います、第一おごりがましいと言う事は感じも良くないですね、贅沢三昧の、例えば分に過ぎた事を平気でやる、んなら借金を使つても、よか着物をつくらんならん、借金を使つても、よかもんを食べなといつた様な生き方は、もういよいよおごりがましい事なんですから心おきさして頂いて、そういうう信心を、いよいよ身につけて頂いて道に草をはやすような事をせずに済む信心を頂いていきたい、まず自分の身の周辺にね、あの徹底して大事にされる物をーつ造つておいて、いかれたら有り難いですね。 どうぞ。